リテラエ・ウニヴェルサレス
郡淳一郎「編集文学ノート」
#01
「編集物(データベースに該当するものを除く。以下同じ。)でその素材の選択又は配列によって創作性を有するものは、著作物として保護する」(「著作権法」第12条の2第1項〔編集著作物〕」
おそらく、編集を日本国が(ブツ経由で)定義した唯一の条項。前半はよいとして、最後の一文は呑めない。願い下げだ。編集は編集の現場でしか働かない機能で、仕事だ。それは人でなく、場に属する。
「文台引下ろせば則反古也」(芭蕉『三冊子』)
その仕事workが作品workになる。そのための権限、権能=編集権以外、娑婆でのどんな権利も要らない。
泥からゴーレムを立ち上げるような、死体の断片からフランケンシュタインを作り出すような、死体にかんかんのうきゅうらいすを踊らせるような……
助けて、imoutoid!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7855081
僕は、編集を文学にしたかった。「小林秀雄が批評を文学にした」みたいに。
編集者のままで(振り出し=編集者→エッセイスト・コラムニスト→作家=上がり、の出世競争に唾を吐きかけて)、文学者を僭称したかった。
選者=代理人。cf.紀貫之『古今和歌集』仮名序——編集長=権力者。cf.ジャン・ポーラン『タルブの花——文学における恐怖政治』——出版者=資本家。cf.長谷川巳之吉「小生は出版書目をもつて自己の自叙伝を書くつもりでおる一人でありますから……」と別のalternativeな、より新しい(「絶対的にモダーンでなければならぬ」ランボー)「形」(←→内容)「スタイル」(対象に切り込む角度。cf.山田・小田部編『スタイルの詩学——倫理学と美学の交差』)で、編集の権能と領域を言い募りたかった。『知恵蔵裁判全記録』以後、「単著」(「もないのに……」)を出すことは野蛮である。僕は前衛でありたかった。
21世紀初頭に、雑誌文学者magazinistポー以後の象徴主義詩学(cf.ノイバウアー『アルス・コンビナトリア』)の末裔(ナレノハテ)としての編集は、このようでしかあり得なかったということを、書き残しておきたい。
「信じてほしい、それはとても美しいものになるはずだったということを……」(マラルメ「私の紙片類についての指示(私の愛する二人が読むため時のために)」)
こんなことをしていいのか、と恥ずかしく、恐ろしい。それは、無価値、無意味とされ、忌避、禁止されていた。ならば、やる意味があるだろうと考えた。
「してあればよいと願うことがあるならば、その仕事を他人に任せるな」 (クルツィウス「指導原理」『ヨーロッパ文学とラテン中世』)
「与えられた情報をどう使おうと俺の勝手だ!」(ケヴィン・スペイシー『交渉人』)
階級闘争としての編集……
まず、著者と出版社の権利を足蹴にすることから始めなければならない。
「自分が想像できる、いちばん酷いことをしなければならない」(吉田アミ)
貨幣そのものが富の本質であり、それ自体が繁殖力を持っているならば、たしかにより多くの貨幣を得ることは生きる目的ともなりうるだろう。
でも、実際にはそうではない。
ほんとうにそうなら、世界中の人間が株や金や不動産や金融商品の売り買いだけに専念していれば、世界の富は激増するはずであるが、実際には全員が遠からず汚物にまみれて餓死してしまう。
フランクリンの言い分とは逆に、「金儲けを督励するのは、そうした方がひとりの人間が周到で、勤勉で、遵法的になる上で効果的だからである」というのがほんらいの語順なのである。
語順が狂ったまま200年ほど経った。
「人間が労働するのは、できるだけ多くの貨幣を得るためである」という倒錯した労働観が現在では「常識」として流布されている。
それは「より多くの貨幣はより多くの幸福をもたらす」という(これまた蓋然性のあまり高くない)命題とセットになっている(実際にはもう少し控えめに、「人間、金があれば幸福になれるというわけではないが、金で不幸を追い払うことはできるのだよ、お嬢さん」(『サイコ』)という程度の貨幣崇拝だが)。
ひとりの人間が周到で、勤勉で、債務を忠実に履行するだけ遵法的であらねばならない理由は、「そうするほうが金が儲かる」からであるとフランクリンは書いている。
人間の経済活動についての理解はこのとき逆立したのである。
「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリングをもうけられる者が、散歩のためだとか、室内で懶惰に過ごすために半日を費やすとすれば、たとい娯楽のためには6ペンスしか支払わなかったとしても、それだけを勘定に入れるべきではなく、そのほかにもなお5シリングの貨幣を支出、というよりは、抛棄したのだということを考えねばならない。(・・・)貨幣は生来繁殖力と結実力を持つものであることを忘れてはいけない。貨幣は貨幣を有無ことができ、またその生まれた貨幣は一層多くの貨幣を有無ことができ、さらに次々に同じことが行われる。(・・・)貨幣の量が多ければ多いほど、その運用から生まれる貨幣は多く、利益の増大はますます速やかになってくる。(・・・)信用に影響を及ぼすなら、どんな些細な行いにも注意しなければいけない。午前五時か午後八時に君の槌の音が債権者の耳に聞こえるならば、彼はあと6ヶ月構わないでおくだろう。それどころか労働していなければならない時刻に君を玉突き場で見かけたり、料理屋で君の声を聞いたりすると、彼は翌朝になれば君に返却せよと、準備もできぬうちにその貨幣を要求してくるだろう。
そればかりか、そのようなことは君が債務を忘れていない印となり、君が注意深いとともに正直な男であると人に見させ、それで君の信用は増すだろう。(・・・)君の周到と正直が人々の評判になっているとすれば、君は年に6ポンドの貨幣で100ポンド使わせてもらうことができるのだ。」(マックス・ウェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、梶山力、大塚久雄訳、「中央公論世界の名著50」、1975年、113-114頁)
それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。
働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。
このきわめて特異な労働観を徴候的に示しているのは、かのベンジャミン・フランクリンである。
「働くとはどういうことでしょう?」という問いを掲げる人間は、それによってすでに言語を用いているし、そのような批評的な問いを発しうる知性の持ち主であることについて他者からの(できればエロティックな関心を含んだ)敬意を向けられることを願っているし、場合によってはそのような問いを発したことの代価を貨幣で得ようとしている。
人間のいとなみはずべて「言語使用」「親族形成」「経済活動」の三つのレベルでのコミュニケーションにすでに帰属していて、決してそこから出ることができない。
だから、「言語をもちいる」や「親族を形成する」と同じく、「どうしてそうするのか」を訊くことができない。